カエルは本能寺にあり!
「本能寺」といえば、たいていの人はその名前に聞き覚えがあると思います。織田信長が明智光秀に攻められて、自害して果てた「本能寺の変」(1582年)の舞台です。
 あのとき光秀は、「敵は本能寺にあり!」と檄を飛ばして、信長を討ちに行きました。その前夜、本能寺では不思議なことがおこっていたのです。
 
 
 
 

 その一つが、碁の勝負での出来事。前夜、寂光寺の本因坊日海上人(初代本因坊)と、本能寺の鹿塩利賢が碁の勝負をしたところ、「劫(ごう)」(いわゆる千日手。「交互に相手方の石一個を取り返し得る形を「劫」という。劫を取られた方は、次の着手でその劫を取り返すことはできない。日本囲碁規約第6条」)が3箇所もできてしまったので、勝負なしとなってなってしまいました。こんなことはめったにないので、周囲も不思議に思ったそうです。

そしてもう一つの不思議は、信長公所有の茶道具の一つ、唐銅香炉「三足の蛙」が鳴きだしたというのです。その鳴いたという香炉がこちら(現物は写真撮影不可なので、パンフよりスキャン)。眉毛があって、とぼけた顔つきが味わいある一品です。この蛙が危険を告げるが如くに鳴いたと、伝えられています。
しかし三足の蛙の必死の訴えも届かず、早朝、光秀の軍勢が本能寺を取り囲みました。物音に家来の喧嘩といぶかしむ信長公に、森蘭丸が「明智の軍勢にございます」と注進に及ぶに至りました。そして必死の応戦も虚しく、信長公は「殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めされ」たのでした(『信長公記巻十五』)。

(クリックすると大きな図をご覧いただけます)

現在、本能寺は京都市役所の南側に位置していますが、本能寺の変の他、何度か焼失してこの位置に再建されました。本能寺の変があったころは、三条油小路付近にあり、現在の町名に「本能寺町」「元本能寺町」とその名を残しています。

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