かえるの学校

「蛙鳴くなる小田原の里 ~ 北条稲荷@小田原市 ~」(2021年4月号)

狐の祟りを恐れて祀った北条稲荷

小田原には室町時代から山城が置かれ、北条早雲から五代にわたり、北条氏一族が関東一帯を支配する中心拠点とした小田原城があります。その小田原城にほど近いところに、北条稲荷があります。稲荷ですから、祀られているのは狐。五穀豊穣を願って……といいたいところですが、こちらの稲荷社は、実は狐の祟りを鎮めるために建立されたのだといいます。
伝承によると、三代北条氏康公が夏の夕暮れに狐の鳴く声を耳にして、『夏はきつ音の鳴く蝉の唐衣おのれの身の上に着よ』と即興で歌を詠んだことが発端となります。夏は蝉の鳴く季節であって、狐が鳴く時期ではないという意味です。翌日、一匹の老狐が死んでいるのが見つかりました。氏康公が詠んだ歌で、「きつ」「音(ね)」と字面を分断したため、鳴いていた狐が死んだのだ、きっと祟りがあるに違いないと家臣が心配していたところ、翌年に氏康公が亡くなりました。後を継いだ四代氏政公が、狐の祟りを鎮めるために小田原城内に稲荷社を建立したのが、この北条稲荷です。現在は、小田原城内からこの場所(地図)に移転しています。

蛙石は北条稲荷の末社

その北条稲荷の参道脇に、蛙石が鎮座しています。これまでにもさまざまな「蛙石」をご紹介してきましたが、こちらの蛙石は格が違います。なんと蛙石明神としてあがめられ、北条稲荷の末社という由緒正しい蛙石なのです。
というのもこの蛙石は、これまでに小田原に異変がある時には、事前に鳴いて知らせてきたという伝承があるのです。ウィキペディア「蛙石」によりますと、「小田原城落城、江戸時代の2回の震災、明治の小田原大海嘯、大正の関東大震災、昭和の小田原空襲の前夜にも盛んに鳴いた」というのです。
私の撮った写真の構図が今ひとつのため、あまりカエルっぽく見えませんが、ウィキペディアに掲載されていた写真は、きちんとカエルです。
見た目は小ぶりな岩ですが、小田原大海嘯の時にも少しも移動しなかったため、掘り下げてみたことがあったそうです。しかし3メートル掘っても下部に達することができず、大きな岩盤の一部が露出したものだと考えられています。
    

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