かえるの学校

『和漢三才圖会』より蝦蟇(かえる)(2018年12月号)

江戸時代の百科事典『和漢三才圖絵』より「蝦蟇(かえる)」

 先月(2018年11月号)から連載している『和漢三才圖会』、今月は巻第五十四湿生類より「蝦蟇(かえる)」(←コマ番号283をご覧下さい)をご紹介します。面白いのは、本来「蝦蟇」と書けば「がま」と読んでしまいますが、ガマガエルについては先月号で紹介した「蟾蜍」と書き、かえるに「蝦蟇」の字が当てられていることです。

「蝦蟇(かえる)」とは

 音は「遐麻(がま)」
 螫蟇(けいば)[和名は加閉流(かへる)。俗に加波須(かはず)という]
[これを遙かなところへつれていっても、常に慕って返ってくる。それでこう名づけている。和名も同様である]
『本草綱目』(虫部、湿生類、蛤蟆)に次のようにいう。蝦蟇は陂(つつみ)・沢の中にいる。脊に黒点あり、身体は小さくてよく跳び、百足と接(まじ)わり融和する。呷呷(こうこう)という声を出す。挙動は極めて敏捷である。蝦蟇・青鼃(あおがえる)は蛇を畏れるが蜈蚣(むかで)を制する。この三物が出会うと、どれも身動きできなくなる[蛇に螫(さ)され、その牙が肉の中に入って堪えられないほどに痛むとき、蝦蟇の肝を搗(つ)いてぬれば立ち処に出てくる]、と。
周礼(しゅらい)』に「蟈(かく)氏が鼃黽を除去することを掌(つかさど)った。牡菊を焚(や)いて灰にし、これにそそげば死ぬ[牡菊とは花のない菊である]」(秋官司寇、蟈氏)とある。
黒虎 身体は小さく、嘴(くちさき)は黒く、脚はちいさくて斑(ふ)がある。
蜔黄(しゅんおう) 前脚は大きく、後の腿(もも)は小さく、斑(まだら)色、尾子一条(すじ)がある。
黄蛤 全身黄色で腹の下に臍帯がある。長さ五、七分。住立処帯(不明)の下に自然汁のでることがある。
螻蟈(ろうかく) つまり夜鳴く。腰が細く、口が大きく、皮は蒼黒色のもので、「月令(がつりょう)」(『礼記』)に、孟夏(初夏)に螻蟈鳴く、とあるのがこれである[螻蛄(けら)と同名である]。
△思うに、蝦蟇の種類は大へん多い。あるとき蝦蟇が合戦することがあったが、これは不祥(わるいしるし)である、とされる。
『続日本紀』によれば、称徳帝の時[神護景雲二年(768)七月]、肥後の八代郡で蝦蟇が広さ七丈ばかりに並び列(つら)なって南に向かって去り、日暮れになってどこへ行ったのか分からなくなった。桓武帝のとき[延暦三年(748)五月]、蝦蟇二万ばかりが、摂州難波から南に行き、行けに列なること三町ばかり、四天王寺の内に入って悉く去ってしまった、とある。「(古今)著聞集」(魚虫禽獣第三十)に、後堀河帝[寛喜三年(1231)の夏の日]、高陽院殿の南にある堀で、蝦蟇数千が群れをなし左右に構え合って戦い、あるいは咬殺(こうさつ)し、半死になるものがあり、それが数日つづいた。京師の人は争ってこれを見物した、とある[その他蛙の合戦には古今に少なからずある]
 河州(かわち)錦部郡天野の近い処に西行田という田がある。そこの田ではカエルがなかなか鳴かない[このような処もままある]。
 [新古今]折にあへば是もさすがに哀れなり小田のかはづの夕暮れの声 忠良

ちょっと解説

  黒虎から始まる四種類のカエルは、どれがどれとははっきりしないものの、カエルの姿をよく観察している様子がうかがえます。また後半ででてきた不祥(わるいしるし)とされる蛙合戦については、2001年3月号でとりあげたことがありましたので、よければそちらも参照して下さい。
 河内の天野にある西行田は、西行が高野山にいたころに山をおりては田を耕していたところで、そこに住むカエルは歌詠みの西行に憚って鳴かないという話を聞いたことがあります。
 最後に書かれた一首は藤原忠良の歌で、意味は「良い折に合えば、これもやはり情趣深いものである。夕暮の田で鳴く蛙の声よ」です。
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